昭和43年6月4日  夜の御理解



  「信心は一人ひそかに信心せよ」とこうおっしゃるが、しかもあの一人ひそかに信心しなければいけません、ね例えばそれはどういうことが言えるかと言うと、「ひそかに修行をせよ」ということにもなるのです、一人ひそかに、誰が見ておるとか聞いておるとかということは必要じゃない、ね、「一人ひそかに信心せよ」と、「一人ひそかに修行せよ」と、外部に見てもらう事はいらん、「一人ひそかに御用せよ」と「一人ひそかにお供えをせよ」と、ということにもなるわけですね、信心に繋がる一切の事柄が、もう一人ひそかにでなからにゃいけません、ねそれがね、ひそかでないと、う~ん、それがあのおかげには関わりはありませんけれどもね、あの心の方が散漫になります、これはあの例えば一つのお供え物ならお供えでもですね、もうしゃっちその、ここに御結界に座っとらんとわざわざ裏まで、裏の方まで持ってきてから、そのぉ、お供えなさる方があるんです、それはもう勿論私を喜ばせようという気持ちでしょうけれども、ね、ですからその、それだけの事を例えば御用をするのですから、それが勧進にならんはずもないし、それがまあ言うならばおかげにならんことないですけれどもね、もうそれでは自分の心にね「おかげを頂いた」というようにはなってこないです、「先生が喜ばれるのを見て自分も嬉しい」と言やあそれまで、いやそれとこれとはまた別です、ね、ですからもう「一人ひそかに信心せよ」と、一人、言わば、「ひそかにひそかにお供えをせよ」と、ね、ひそかにひそかに御用をさしてもらいよるとです、ということも言えるわけなんです、ね、誰に見てもらう事もいらん聞いてもらう事もいらん、ね、いわゆる、あの、人に、あの、人に見せるような修行をする人があるですね、だからそれは修行さして頂いたその暁に、ある事が成就して、そしてそれが体験談口語られる時にです、ね、「こういう修行をしとります」って、「こういう修行さしてもらったらこういう風なおかげになった」といったようなことは、それは良い事でしょうけれども、自分の心の中に言わば信心で頂きたいと思うその喜びの心と言うかね、信心の喜びの心というものは、ひそかになからなければ、与えられないように思いますですね、そこでもう一つここで分からなければいけないことはですね、そんなら一人ひそかに信心する、「誰も知らん、もう神様だけがご承知じゃから」「親先生だけが知っとってもらう、それで良い」ね、「誰でん知ってもらわんでも良い」と言いながら例えばなら御用をする、信心をしておりますと、ところがその喜びがわかないといたしましょうか、一人ひそかに信心して誰も知らんような修行をしておるにもかかわらずです、ね、心の中にその、お~、喜びも何も、しっ信仰的、信仰的じゃなくて、信仰のその感動というようなものが、もしないとするならね、これはまた可笑しいんですよ、ね、だからそういう時にはね、一人ひそかに信心をしておるけれども、一心が足りないと言うか、真が足りないということを知らにゃいけません、ね、一心があっての修行の時にはね、誰に見てもらう事も聞いてもらう事もいりません、それの方が確かに有り難いものが頂けれる、ところが一人ひそかに信心さして頂いておるけれども、有り難いものがわかないならね、まだ一心が欠けておる時、足らない時、ね、または、真心が欠けておる時、ね、だからこれでも、また、言わば馬鹿らしい話しですよね、一人ひそかに信心するということは、ね、一人ひそかに自分で、まああの「ほくそ笑み」ということを申しますね、これは良い意味じゃないですけれども、一人ひそかにほくそ笑み、例えば一人ひそかにですね信心の喜びに浸らしてもらうと、ほくそ笑みじゃないけれどね、というようなものが信心のいよいよ上訴が高く、高められて行くのであり、そういう心が溜り溜まって、真に有り難いになり、おかげを頂く元になるのですよ、ですから「一人ひそかに信心せよ」ということは「一人ひそかに修行せよ」「一人ひそかに御用せよ、奉仕をせよ、お供えをせよ」ということにもなるわけなんです、ね、でないと喜びがともなわないということ、心の中にせっかくの喜びがね、神様からお返しがない、ね、それではつまりません、かと言うてうんなら一人ひそかに信心さして頂いておるのに、喜びも何もわかないとするなら、「はぁ本当にお供えをさして頂いて良かった」というような心もここに響いてこんならですね、これはそのお供えの可笑しい、それはまだまだ真心が足りんのだ、ね、誰も見てござらんでも良い、自分だけひそかに修行さしてもらって(?)というのに、ならひそかな修行にです、本当にお参りをさして頂いておることが修行さして頂いておることが何とはなしに有り難いというものを感じないならね、これはいよいよ可笑しい、ですからそれはまだ一心が欠けておると思うて、一心を、または真をですね、追求して、そして一人ひそかに信心さしてもらう、もうこれにはもう絶対、間違いのない、これには喜びが、その反応がね、喜びになって返ってくるのですよ、それが有り難いんです、ね、それが言うならば徳にもなっていくのであり、それが信心の、ね、妙境とでも申しましょうか、信心の喜びになるのです。
  どうぞ「一人ひそかに信心せよ」とは、「一人ひそかに修行せよ」「一人ひそかにお供えをせよ」「一人ひそかに御用せよ」と言うて、わざわざ誰も見られんごとこっそりとせろという意味じゃないですよ、もう夜夜中にお供えで何でん誰がお供えしたか分からんごとせろっちいう意味じゃないですね、ね、修行でも何でもそうですよ、もうこう人の目を盗んでから修行するというそれとは違う、ね、ただ問題は「私はこげな修行しとりますよ」と言わんばかりのような修行を止めなければいけないという、ひそかにしとる修行を誰かが見ておる、それはもう、とてもそれは何とも言えんものも、相手にも与えることが出来る、自分もそれを見せようと思うて見せるのじゃないから、心の中に響いてくるというかね、さちさわりになるのじゃ決してありません、信心をさして頂く、進めて行く一つのこつあいですね。                                                       どうぞ。